すみれのきろく

日々を記録する。私が私を忘れないように。

デフォルト設定を見直す。

この前友達と食事をしていたとき、

友人が

最近できた恋人とプレゼント交換をしたくない、

自分はしたくないのだけど、

相手はしたいみたいで困っているという話をしていました。

友人は誕生日、付き合ってから何周年記念、クリスマス、どれも嫌だ、やるなら食事で充分とのこと。

もともと物欲が少ない子なので

そうだねー、

と聞いていたのですが。

途中で、あれ?なんか違うかも?と

思ったのです。

その子は半年前に別れた恋人がプレゼント交換好きで、

何かある度に、

財布、アクセサリー、高いコートなど、

いかにも『恋人らしい』プレゼントを

あげるし、

彼女である友人にも同じように

それを要求するタイプでした。

物欲が少ない私の友人にとっては

それが苦痛でしかなかったのだと思います。

私にもプレゼント交換が好きか聞かれたので、

私はいつも必要だけど持ってない

実用性のあるものやちょっとした雑貨を

あげたりもらったりしているから

それは嬉しいし好きだよ。と答えました。

もしかして、

友人はプレゼント交換そのものが嫌いなんじゃなくて、

プレゼントの基準が前の恋人に設定されているから

それが嫌なものだと思い込んでいるのかも、と

いう話に。

デフォルト設定がいけないのかも!

という話で落ち着いたのですが、

これって、

事象は違えど

誰もがもってる感覚、

スピリチュアル的にいうと

まさにブロックってこういうことなんだな、と

思ったのです。

 

例えば私は

今の仕事中によく、

真面目だね~って

言われます。

別にこれって誉め言葉じゃないと思うんです。

私だってもっと力を抜いて楽しくやりたい。

暇なときはお喋りだってしたい。

でも仕事だし。

何か頼まれたらすぐに、急いでやらないと、

やってることアピールしないと、

嫌われちゃうかもしれない。

でもそれは私が昔通っていた

俳優養成所の講師が、ワンマンで、

みんなが自分が思うようにすぐに

動かないとキレる人だったり、

学生時代バイトしてたレストランの社員が

ものすごく意地悪で、

私は目をつけられていて、

片付けしながらお喋りしてたら

『時給もらってんだから黙って働け』

みたいなことを怒鳴られたりした、

そういう経験から

どのくらい真面目にやるか、という

その程度が私のなかで

もしかしたらかなり高く設定された、

さらにその動機には

叱られることや、嫌われることへの恐怖心がある。

もちろん仕事だからきちんとやらないといけないけど、

今の職場のように

力を抜いて、趣味の延長でやってるような

雰囲気のなかでは、

私のトラウマによる仕事モード設定は

気真面目すぎてしっくりこない、

もしくは

暗すぎる、

感じになってしまうのだと思います。

私は無器用なので

うまく力を抜くことがもともと苦手だし、

気づいたからと言って

明日から適度なきちんと加減と

適度な不真面目さを

発揮するのは難しいと思いますが、

たまに自分のデフォルト設定を見直すことは、

人生を楽に歩むうえでは

必要なことかな。と

思慮深くなった秋の一日。

それにしても私、

本当に内省的な人間だと

自分でもつくづく実感してしまいます。

にゃー。
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自分を受け入れる。

 私は小学5年生の時から日記をつけています。

この前実家に帰ったとき、

小学生から中学生の頃の日記を読み直しました。

学習ノートが力強い鉛筆文字でびっしり埋め尽くされていました。

転校する前の揺れる気持ちから転校してからの馴染めない日々。

テスト勉強にやる気が出ないこと。

親友からの心ない言葉。

家族のこと、夢、大好きな本について。

怒り、悲しみ、そして未来への憧れ。

それらを読んでいて、

私って、子どものときから

いつも理解されない孤独を抱えてたのねって

気づきました。

というか、その事に自分でも気づかず、

必死で、まわりに馴染もう、友達とうまくやろう、と紙から匂いたつほどの生真面目さが不憫で、

もともと落ち込んでいたから

泣いてしまいました。

私って回りも自分も気づいてなかったけど、

心の奥ではけっこー

浮いてたんや!

居場所なかったんやなーって。

まあ泣くほどのことじゃ

全然ないんだけど、、、

 

で、今日も仕事中に

なんか居場所ないなーっていう気持ちになって、

もうちょっと前から自分の将来を考えて動いてたら

ちがったかなー

なんでこんななったんかなーとかつい思ってしまった。

だけどそこで、ね、

あ、いつもどこか馴染めないのが私なのかも、

馴染めない自分を受け入れよう、

抵抗したり、居場所探しの旅はやめて、

むしろ今、居場所ないって感じてる自分を

受け入れよう、できれば愛してあげようって切り替えたら、

残りの時間は大分楽になりました。

抵抗しない、受け入れる。

これは中学生の時にはなかった選択肢。

頑張って頑張って頑張って頑張って

自分を変えるしかないと思ってた。

目の前の世界が、今の状況が、

すべてじゃない。

 

そこに気づけて良かった。

年の功。

 

 

人にどう思われるかなんて本当にどうだっていい。

『まわりに合わせる必要なんてないわ。

大切なのは自分がハッピーでいること。

学校の友達なんて、卒業したら二度と会わないんだから』

 

これは、高校時代よく買っていた

ムービースターという雑誌に載っていた

ジェシカ・アルバの言葉。

 

人間関係に吐き気をもよおすほど悩んでいた16歳の私はこの言葉に深く納得して

オレンジ色の蛍光ペンで太い傍線をひきました。

あのとき以来、ことあるごとにこの言葉を思いましています。

今思ったけど、これは私の座右の銘かも。

だって恐らく、今まで感動したどんな言葉より多く思い出しているし、

私を力づけてくれるから。

 

それはそれだけ私が

人の目を気にしてしまうということ。

 

最近、私は就活を一度もせず、

正社員になれる可能性があったときもあったのに自分から振り切り、

ぶつ切りのアルバイト生活を続けてきたことについて自分を責めていました。

演劇、鬱、チャレンジ精神、

いろんなものが重なって、

こういう道を歩いてきてのだけど。

 

今は28歳。

普通に新卒で正社員になってたら

今ごろは一通りのことはできるようになって

先輩や後輩たちに信頼されて

お給料も貯金もあって

新たな一歩を踏み出せたかもしれないのに

私はアルバイトで目一杯稼いだお金を

勉強や観劇や鍛練やセラピーやらにつぎ込み、

いつも貯金はなく、

服を買うにはまずはリサイクルショップをまわるような生活。

 

いったい何してきたのかしらって。

 

結局どうなりたくてこんな道を選んだの?私は。

 

まあそれは、これから分かるとして(笑)

 

ここでのポイントは

会社で働く、とか、お金を沢山稼ぐ、

ということが正しい、そうすべきっていう

思い込みが私にも深く根付いてるということ。

しかもそれは私が本当にやりたいことではなく、

社会的に正しいとされていることをしていないことにたいする後ろめたさ?のようなもの。

 

自分軸で後悔するならいいけど、

他人軸で自分を卑下することほど

時間の無駄はないね。

 

死ぬ瞬間に、

正社員生活をしなかったことを

悔いるとは思えない。

だから人と比べて

自分を貶めるのはもうやめよう。

 

私はとてつもなく不器用だったけど、

馬鹿で浅はかなところも沢山あったけど、

いつも自分に誠実にチャレンジしてきたじゃない!

死ぬときに、もし問題にすることがあるとしたら、

自分が自分を生ききれたかだけのはず。

 

私は今までの私を、愛して、抱き締めて、

誇りに思おう。

誰にどう思われようと関係ない。

 

私と生きているのは私だけ。

私が私と繋がれば、

きっと全てと繋がれるのだから。

ユーモアと自尊心

八丈島で本気で

ああ私ここでこうやって死ぬのかな、と

本気で悟ってから、

どんなときも

どんな自分も

それはそれなり、と

受け入れるように努めています。

むしろ、忘れないように

あの、波にのみ込まれて手も足も出ず、

大量の海水が口に入ってきた瞬間を

仕事中にそっと思い出してみたり。

ああ私、こうやって下手くそな仕事して、

ゴニョゴニョして生きてる、

なんだかどうしようもない私も、

まあ生きてるだけいいかなって思えるから。

恐怖心は全くなかった。

ただ、死を瞬時に意識したことを、

前向きになるために、

頭のなかで再生する。

 

最近洋服を売ってて、自分でも着てみたりして思うのは、

私は自分のことを鏡で見られない、

見ているところを人に見られるのも苦手すぎる、

ということ。

外見に対するコンプレックスと、

なんだろーなー

人に対する警戒心?羞恥心?

まあ全ては自尊心低く生きてきてきたことに

起因するのだと思う。

私だって、自分にたいしてはわりと自分が好きだし、認めているところも沢山あるの。

ありとあらゆるチャレンジ、経験、傷ついて泣き叫んだこと、鬱、告白、過ち、それでも自分を諦めていないこと。

服だってオシャレだって本当は好きだし、変わった服を着こなすことも、できる顔だし。

でも世界にたいしては、

いつもどこか自分を卑下してる。

恥ずかしいと思ってしまう。

隠れていたくなってしまう。

さっき職場で素敵な羽織ものを友達と見ていたときに、人には勧めるのに自分が着てるときはおとなしいねって言われて気づいた。

鏡で見てくださいって言われるの、

本当に本当に苦手なの。

舞台に立つのは平気なのに。

こういうことは事の大小とは関係ないみたい。前後左右もなく、セオリーなし。

 

あとね、赤毛のアン読み返してて、

何度も出てくるユーモアのセンスについて。

私は真面目ってよく言われる。

意外とそうでもないんだけど。

今だってソファーに寝そべって

ワンピースからパンツ見えそうな格好で

スマホ触ってる、、

いつもわりとそんな感じほんとは。

まあこれはただ、だらしないだけか。。

 

真面目とユーモアって両立しない。

多分。

私は自分をどこか笑い飛ばせるところがいつもあって、それはユーモアだよね?

改めて考えるとユーモアって何だろう、、

どんな瞬間にもおかしなことを見いだす才能のことかな。

 

ユーモアと自尊心を

呼び覚まそう。

9月のよく晴れた気持ちのよい夜に

自分のための覚書。

今朝、ずっと買い替えたいと言ってた掃除機が

突然壊れた。

買い替えたいと思っていたことを忘れた頃に。

私の波動が変わったのかな。

なんだか疲れたわ。

お風呂にはいろ。

 


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表参道を御輿がゆく。

都会のなかで伝統や自然にばったり出会える瞬間が

好き。

 
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八丈島で溺れる。

まさにこの通りです。

私、いま生きてる。

生きてることが奇跡。

 

今は八丈島にいます。

シュノーケリングをしていたところ

あまりにも美しい海に

気がついたら荒波の中に

抗うすべもなく

飲み込まれかけていた。

 

海亀が可愛すぎたから…

岩場の近くならなんとか足もつくし

大丈夫かと思ったけど、

全然大丈夫じゃなかった。

私の命を救ってくれたダイバーのおじさんによると

岩場の近くの方が波が強くなって

絶対にしがみついていられないから

危ないらしいです。

深くても沖の方に行った方が

泳げたんだけど、

潮の流れにたいして私の泳ぎがどれだけ

意味を持つのかいまひとつ

自信が持てず

ビビって岩場にいたのが運のつき。

 

シュノーケリングの器具が

激しい波の勢いで一瞬ではずれ、

口の中にどんどん海水が入ってきて、

ただ手足をバタバタすることしかできず

ああもう私死ぬのかなと思いながらも意識は冷静で

(溺れている人を演じている私という人格が別にいる、みたいな感じ)

ああこうやって人は死んでいくのか、

マサちゃんは溺れてないかな、とか

考えながら

頭が出た瞬間に近くの防波堤の上にいたダイバーさんに

「助けて」と叫びました。

途中波が落ち着いたとき

岩場に立ったけど、岸辺がどこにもなく、

ダイバーさんには

沖に行けっていわれるし…

絶体絶命のなか

誰かが投げてくれた浮き輪が落ちてきて、

珊瑚やキラキラ光る魚の群れに溢れた

美しい海の中をみっともない私は

女性ダイバーさんに岸まで導かれ、

ゆらりゆらりと助け出されました。

溺れていたのは多分30秒くらいだったのかな。

もっと短かったかもしれないし、もっと長かったかもしれない。

とにかく岸にあがった私は

元気で、冷静で、ひたすら

ダイバーさんたちにお礼とおわび。

岩で身体中切り傷だらけになったけど、

全然痛くなかった。

なぜか、こういう大きな事故とかのときは

私とても冷静になるの。

いつもどうでもいいちょっとしたことで

慌てたり大騒ぎしたりするのに。

 

ダイバーさんたちは、慣れてるのかな。

ちっとも恩着せがましくされなかった。。

すごいね(;_;)

なんだか普通に、ちょっと荷物持ってくれた、みたいな感じだった。。

シュノーケリングのときは浮き輪持ってねって

注意されたけど…

ハイ、持ちます(>_<)

 

とりあえず、私は元気だし、

むしろ生きていることがすごいって感じる。

数日前ひどい鬱状態

「私がいま死んだらみんな後悔するはず、、

とか呪いのようなことを思っていたのが

笑えるくらい。

生きてるって

こうやって、私が私として

いろんなことをしたり感じたりできる。

 

それが、嬉しい。

 

ああ生まれてはじめて見た海亀、

可愛かったな。

あれが私の人生
最期に見たものにならなかったことを

ただひたすらに、

感謝します。

 

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話しかけようとするたびに心臓がバクバクするのは本当なのに。

帰り道、なぜかおじさんがコンビニの前に倒れた自転車のあいだに

尻もちをついたような恰好で挟まっていました。

私が手を握って何度も引っ張っても立ち上がれず

通りがかりのカップルも手伝ってくれてみんなで引っ張っても

おじさんは立てず「うんと力を込めて」と私たちに指示だし。(笑)

で、結局彼氏のほうがおじさんの脇をもって

背中からひっぱりあげてくれておじさんは無事に救出されたのでした。

 

満月がきれいな夜。

 

話しかけようとするたびに心臓がバクバクする。

特に目上の人に対して。

相手も私のように感じているかもしれない、

と思うような相手(例えば人見知りの子供とか)にはうんと優しく話しかけられるのだけど。

「上司 話しかけにくい」ってググったらいっぱい出てきて

その中に「いい上司は自分から話しかける、悪い上司は話しかけない」

っていうのがあったよ。

で、「話しかけにくい上司から絶対好かれる方法」っていうのもあったから読んでみたけど

挨拶する、とか相談事を持ち掛ける、とか褒める、とかそんなんで

結局

話しかけにくい人には自分から話しかけろ

っていう鉄則でしかないじゃん、って思った。

それができないから困っててあなたの記事にいきついた新入社員を

絶望に突き落とさないでよって。

 

話しかけない上司が悪いって言われても

その上司は上司で自分の人生を生きていて

上司になりたくてなったわけでもない人もきっとたくさんいて

出合ったからには上司、という役割に期待しすぎず

「個人」を尊重することでしか改善の道はないのではないかしら。

相手をちょっとでも理解して、自分のことも理解して、

ある程度諦めて、でも前向きに。

そんな細かい芸当をひとり胸のうちで繰り返している。

 

私がとてつもなくネガティブな気持ちになって

次から次へと涙が出るようなとき

またはちょっとした人の発言をマイナスに受け止めて

自分でも私って被害妄想な奴だ、なんて思うとき

夫に「わざとネガティブになろうとしてる」みたいなことを言われることがあって

そのたびにものすごく腹が立つ。

どんなに一緒にいて、いっぱい話して、同じ猫を愛していても

理解しえない他人としての<要素>みたいなものが見えてしまう瞬間。

 

本当に苦しいから苦しいっていう人に

苦しみたいだけでしょって言うのって。

もしかしたらそういうときもあるかもしれないけど

そんなふうに考えたり(まあ、考えるくらいは私もするときあるけど)

本人に言うのって

ただの意地悪にしか思えない。

 

でもね、そうね、結局私の感覚もあなたの感覚もどこかのだれかの感覚も

全部その人にしか感じられないものなんだね。

今日、川上未映子の『きみは赤ちゃん』を読んでいて

子育てをしている際の夫の分かり合えない感じとか

出産前後の痛みや苦しみに関する記述で

「結局絶対自分と他人とが同じってことはありえないから完全に分かり合うなんて絶対にできない」みたいなのがあって

本当にその通りで

妊娠、出産、子育てなんてしたらきっと

いつもはぼんやり意識している事実が全部あからさまになって

時に固くとがって胸を突き刺してくるような気持ちに

なるんだろうって思った。

 

この本、すごく面白い。

すごく、迫ってくる。

私は妊娠中のウェブエッセイを2年ほど前読んでいました。

産後編含めた書籍版を今初めて読んでいます。

赤裸々で、まっすぐで、たまに切なくなったりしながら

まあ、とにかく、面白い!!って思ってすごいスピードで読み飛ばしています。

 

hon.bunshun.jp

荒井良二さんの世界

荒井良二さんという

絵本作家が好きです。

大胆で温かい、独特の色使い、

なんともいえないかわいらしさと優しさを感じる人や動物。

ページをめくっていると

遠い昔においてきた幸福な世界が

めざめるような気持なります。

いま調べてみたら

ブログを発見。

blog.ryoji-arai.com

 

読んでみよ♬

 

最近昔大好きだった赤毛のアンシリーズを読んでいます。

本当に今も大好きだしもうたぶん30回くらい読んでるから

次のページに出てくるちょっとした文章とかが

自然に頭に浮かぶくらい。

 

小学生のとき、私は本当に赤毛のアンの世界にワープしたいって思ってました。

明日になったらこんなつまらない、コンクリートに囲まれた街や学校は

私の目の前から消えて

美しい魔法のような自然にあふれた世界に変わる。

私もプリンスエドワード島でアンの『宿命の友』となって

ギルバートに恋をしてダイアナたちとアボンリーの学校に通って、、

念ずれば通ずるかと半ば本気だったから

目覚めるたびにいつもと同じ白い壁紙が悲しかった。

赤毛のアンに限らず、大好きな本に出合うといつも同じことを考えて

それでも変わらない現実にひとり泣くこともしばしば。

で、またここ数日その感覚を思い出して

子供の頃と同じようになんだか満たされない、寂しい気持ちになったのです。

現代の、この日本の東京で

自分の気持ちを話すこともなく笑ったり泣いたりできずに

悶々と今日を生きてしまったことが悲しくて。

 

でも、ふと気づいたの。

荒井良二さんは100年前の、美しい自然の中で生まれ育った人じゃないんだ!って。

あれ、荒井良二さんって私と同じ時代、同じ国に生きてる人だけど、

こんなにも彩にあふれた美しくて優しい世界を描いてるんだって。

 

当たり前すぎるくらい当たり前のことだけど

それを意識できたことで、

自分が子供のころから「時代」とか「環境」をひそかに

恨んで、幸福でいられない原因を

外に押し付けてたんだなって思った。

改めて考えると『赤毛のアン』読んで

「今の私と似てる♬」って思うことだってできたのね。

できなかったけど。

違っているのが悲しくて、なんとか近づけたくて

近づけなくて、夢が失望に変わってしまった子ども時代。

 

すべては自分なのに。

それをわかっているつもりで、私、わかってなかったのね。

「こんなところにいるせいでうまくいかない」とか孤独だとか思ってたけど

同じところに、同じ時間にいても

ずっと美しくて、優しくて、あたたかくて、ドラマチックな

世界を創造できる人もいる。

 

地味に感動した。

そして私も、そうなりたい、と思ったのでした★